元世界チャンピオン花形進の「強さ」の教育

花形進が教える「真の強さ」とは?子供の躾けに困惑する親御さん、すべての教育現場に携わる方々、職場で指導的立場にある方、そして何より「強く生きたい!」と心から願うすべての方、必見のブログだ。

花形進の横顔 その6

 花形進の初めての世界タイトルマッチへの挑戦は「負け」という結果で終わった。
 しかし、この時22歳。「世界」を垣間見た花形進は、自分の心の内から「諦める」という選択肢を既に排除していた。
  それは、長い時を費やして努力し続ける中で育んだ姿勢であったのであろう。また、そんな姿勢の男に周囲も世界挑戦のチャンスを1度くらいで終わらせはしなかった。
 いや、2度や3度で終わらせはしなかったのだ。

 綿貫誠一戦、垂水茂戦と日本タイトル防衛戦を勝利で経て、トーレス戦から1年半後、昭和  46年4月エルビト・サラバリア(フィリピン)を相手に2度目のWBC世界フライ級タイトルに挑戦、再び判定で敗れる。
 当然の如くの再起。
 1年後には3度目の世界タイトルマッチで花形進は、あの大場政夫に挑んだ。
花形進は世界ランク4位、大場政夫にとっては3度目の防衛戦であった。
大場政夫には、4年前勝っていた。
 「そうですね・・・」と花形進は当時を振り返る。
 「大場君は僕に負けたことを忘れられなかったんでしょう。世界王者が過去に負けた相手をそのままにしておくことは出来ない。それが彼の負けん気なんですね。だから僕も燃えたわけです」

 だが、花形進は試合直前に体調を崩し減量に失敗してしまった。計量の際に0.9キロオーバーしてしまったのだ。
 1回目の計量の後、サウナでウエートを落とすものの、38.2度の熱を出すなど、コンディションは最悪になっていた。「いや、本当につらいなんてものではなかったですよ」と、あまり弱音を語らない花形進が珍しい。

 そうしてドクターストップ寸前の体で花形進はリングに上がった。
 しかし、その試合で見せた彼の闘魂はすさまじかった。
 前半はリーチに恵まれた大場に押されるものの、12回、13回と花形進は猛反撃、大場を再三ロープに追い詰めた。
 「それでも大場君は強かったですね。なにしろガッツがあった。一発入れると二発三発と打ち返して来る。何よりも勝負を捨てない。お互い執念で打ち合っていたような気がします」

 当時のマスメディアも絶賛した激しい攻防の世界戦は、主審が71−71の裁定をするも、花形進の判定負けに終わった。
 花形進は再び、地道な努力の日々に身を置き、次のチャンスをじっと待つことを余儀なくされた。「諦めるな」その言葉を何度も何度も自分に言い聞かせた。

 一方、大場政夫はその翌年、所属ジムへ愛車のシボレー・コルベットで首都高を運転中に不慮の事故に遭い、現役世界王者のまま23歳という短い生涯を終えてしまった。
 戦績は38戦35勝16KO2敗1分。
 2敗のうち1敗は花形進が奪ったものだ。

 花形進にとっても大場政夫にとっても生涯お互い忘れ得ぬ対戦相手であったことは言うまでもない。

つづく

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花形進の横顔 その5

 花形進は、花形ボクシングジムの選手が試合に負けると、負けた選手に対してこんな言葉をかける。
 「勝負なんだから勝ち負けの結果は仕方ないよな。くよくよ考えたって変わらないぞ。だいたい、お前はスーパースターでも、ヒーローでもないんだから、1回や2回負けたから何だってんだよ。悔しかったら明日から練習しろ」
 
スーパースターでもヒーローでもないなら、練習に打ち込め。
これを実践してきたのは、紛れもない花形進本人であった。
そして、その男が多くの人々の度肝を抜き、ヒーローとなる。

WBCフライ級チャンピオン・アラクラン・トーレス(メキシコ)と花形進のロサンゼルス遠征ノンタイトル10回戦は、誰もの予想を覆した。
 花形進は持ち前のヒットアンドアウェー戦法で、トーレスのパワーを空転させ、終始リード、文句なしの判定勝ちを収めたのである。ボクシング界の快挙だった。
 帰国すると空港にはマスコミ取材陣が待ち構えていた。出発の時とのギャップに花形進は少なからず驚く。猛烈なカメラのフラッシュの嵐、詰め寄る記者達・・・
 弛まぬ努力の末、花形進はついに栄光を掴んだのである!!!

 と、“スポ根”ドラマならば、ここでエンディング・ミュージックが流れ、THE ENDとなることであっただろう。
 しかし、人生は言わば死ぬまで終わりのないドラマだ。
 
 世界チャンピオンから奪った大金星とはいえ、あくまでもノンタイトル戦。世界チャンピオンの座は、もはやすぐ目の前、手の届くところ、時間の問題、ではあったとしても世界チャンピオンでないことには違いない。
 
帰国後、花形進は、日本フライ級チャンピオンとして再びスピーディ早瀬を打ち破り、防衛を果たし、その勢いのままトーレスとの念願のタイトルマッチを迎える。
 敵地メキシコでの戦いとはいえ、5ヶ月前に打ち負かした相手である。実力で行けば花形進が勝つ。それだけのテクニックも勢いも持ち合わせていた。何よりも彼自身に強い闘志と自信があった。
 
 しかし、結果は花形進の判定負けであった。

 (つづく)

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花形進の横顔 その4

 勝ったり、負けたり。負けたり、勝ったり。負けたり、負けたり・・・
 しかし、諦めずに明確な目標を持って努力を怠らない者に、終わりのないトンネルはない。
 花形進は昭和43年、10回戦選手に昇格する。実に31戦を積み重ねた後の10回戦昇格であった。

 10回戦に進んでからの花形進は連戦連勝を重ねた。それまでKO勝ちが一つもなかったが、長い下積み時代に培った技術と、絶え間ない鍛錬に裏打ちされたスピード、そしてなによりも不屈の精神力が、花形進を飛躍させた。昭和43年7戦7勝、2KO。この数字がそれを物語る。

 この時期花形進は、あの伝説のボクサー大場政夫に判定勝利を収めている。後にWBA世界フライ級チャンピオンとして5度の防衛に成功するが、現役王者のまま不慮の事故死を遂げ「永遠のチャンプ」と称される伝説のボクサー、大場政夫だ。
 しかし、この勝負はやがて後に花形進vs大場政夫の因縁の世界タイトルマッチへとつながって行くのだが・・・

 さて年が明けた昭和44年、花形進は大きく花が開く。
4月にスピーディー早瀬を破り日本フライ級チャンピオンの座に登りつめたのだ。
そしてその勢いは留まることを知らなかった。
 6月に現役のWBCフライ級チャンピオン・アラクラン・トーレス(メキシコ)とノンタイトル戦ではあるが、ロサンゼルス遠征でのカードが決まったのだ。

 つい数年前、1勝もできない年もあった。“世界”など程遠かった。見上げても見上げても、世界は霞んで見えた。
 いや、そう思っていたのは周囲の人々でしかなかったのかもしれない。少なくとも花形進には見えていた。少なくとも見ていた。世界を見ていたからこそ、負けても負けても、翌日からジムに顔を出し練習に打ち込んできたのだ。負けたから、勝つことを考えた。負けたから、勝つために練習をした。

 勝負をしたからこそ、「負け」があり、「負け」があるからこそ、「勝ち」に向かう力を得られる。勝負をしない者に、「勝ち」も「負け」もない。

 メキシコのトーレスはサソリと呼ばれた強打者であった。マスコミをはじめ、周囲は花形進の勝利の可能性はないと踏んでいた。完全にノーマークであった。
 花形陣営は、人知れずほとんど取材を受けることもなく、ひっそりと羽田空港からロサンゼルスへ向けて飛び立った。

つづく

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花形進の横顔 その3

 「何が大切かって、休まずにやり続けること。それが努力ってものです」

 花形進がジムの練習生達と話す時、一つのキーとして語ることだ。
 例えば、ロードワーク(走り込み+α)。一日に何キロ走るとか、距離の問題よりも、「毎日」続けることの方が大切だと語る。このことは単純な話なようで深い。

 ある日、仮にやる気がみなぎって50キロ走ったとする。周囲からすれば、「おお、それはすごい!」となる。話としては“派手”は話だ。一方、一日5キロ走る。それを毎日欠かさずに走る。毎日毎日。この話はどうか?話としては、あるいは“地味”な話かも知れない。

 しかし、前者よりも後者の方が、花形進は大切だと語る。また後者の方が、前者よりも数段難しいことは、何かに本気で取り組んだことのある人なら誰でも理解出来るだろう。

 何が難しいかって、「やる気がある時に“やる”」よりも、 「やる気が起きない時に“やる”」方が余程難しいのだ。

 「そりゃ、私も人間だから、それが簡単なことではなかったですよ。一応、雨の日は、休みと決めていたんです。
 だから、ロードワークの時間が近づくと、『ああ、雨降らないかな』って、本気で念じるわけです。
 でも都合良く降らない。で、結局走りに出るわけです。ええ、そこできちんとやるかどうか、というところですよね。これはカラダが頑丈とかそういう問題ではない。心の持ちようの問題です。
 そしてその心を支えているのが、『絶対にチャンピオンになる』という強い信念です。
試合に負けて、落ち込んでやる気がなくなったからって、練習をやらなくなっちゃいけないんです。

 もちろん、試合後数日は休息を取って良いでしょう。でも休息を取ったら、また休まずに練習するんです。それが出来るか、出来ないかってことですよ。
 勝ってどうするかではない。負けて、それでどうするかってことですよ。勝負は負けることがあるんです。負けても、信念を持って立ち上がり、すかさず練習に打ち込み、再び勝負に挑む。これが強さってものではないでしょうか?」


 花形進はデビュー以来、10回戦に進むまで、29戦して15勝8敗8分でKO勝ちは一つもない。
 しかし、花形進は、この期間に基礎体力、技術を着々と身につけていた。彼の持ち味の「我慢強いボクシング、最後まで闘志を捨てない粘着力、相手に打たせないボクシング」、これらは、いわばこの“下積み”時代に培われたものだ。
 そして昭和43年、デビューから4年の時を経て、10回戦に進んだ。
花形進はまだ疲れていなかった。

つづく

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花形進の横顔 その2

花形進がボクサーの道を志したのは中学生の頃だ。
時は昭和30年代半ば。
ボクシングの試合がテレビ放映だけでも週に8回あるという黄金期。
日本中がボクシングに熱狂する中、テレビの中でその黄金期を支えていたファインティング原田選手(世界フライ級・バンタム級2階級チャンピオン)や矢尾板貞雄選手(東洋フライ級チャンピオン)に中学生の花形進は釘付けになった。
ちなみに矢尾板貞雄選手の世界フライ級タイトルマッチは視聴率92.3%という驚異的なデータを残しているから、まさに“日本中”が釘付けになったといえる。
そんな中、花形少年は強く思った。「もうこれしかない!」
学校の作文の時間に『オレは世界チャンピオンになるのが夢』と書いた。少年らしい夢だ。ボクシング黄金期の当時、多くの少年達はおそらく同じ夢を描いたであろう。実際、花形少年は友人達と連れ立って河合ジムを訪ねている。
しかし、花形少年は周囲の多くの少年達とは違った。
一緒にジムに入門した友人達は、「世界チャンピオン」が叶わぬ「夢」であることを感知し、半年も経たないうちにジムを辞めていった。少年達の興味は移り気である。また高度成長期のさなか、楽しいことや魅惑的なことが日本に溢れ始めていたから尚更のことだ。
一方、花形進はそれらを横目に、まっしぐらにボクシングに打ち込んだ。
「これしかない!」のだ。他のことでは世界一にはなれない。世界一になるのなら、ボクシングしかない。花形進の「夢」はいつしか「目標」となっていた。達成すべき大きな目標だ。
しかし、無論その目標への道は平坦ではなかった。
「4回戦では勝ったり負けたりしていました。テレビでみて頭で描いたようには行きませんでした。なにしろ相手がいることですから。相手も“勝とう”と思ってキツイ練習をしてリングに上がるワケです。それでもいつかチャンピオンになれるという自信というか感触みたいなものは掴んでいましたよ」
実際、花形進の4回戦時代の戦績を見ると16戦8勝5敗3引分け。
世界チャンピオンへの道は順風満帆とは程遠かった。

つづく

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