元世界チャンピオン花形進の「強さ」の教育

花形進が教える「真の強さ」とは?子供の躾けに困惑する親御さん、すべての教育現場に携わる方々、職場で指導的立場にある方、そして何より「強く生きたい!」と心から願うすべての方、必見のブログだ。

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花形進の横顔 その9

人生はドラマティックではあるが、映画やテレビドラマではない。
ハッピーエンド、それも絶頂の内に幕が下りる、あるいはエンディング曲が流れ、“The END”とはならない。

花形進は現役ボクサーを引退した。
しかし、花形進の人生というドラマに良くも悪くも幕が下りたわけではなかった。
現役時代に看護士として勤める妻三千代さんと結婚、息子の晋一さんと家庭を築いていた花形進は、即座に生活の経済面について考えねばならなかった。

世界チャンピオンの座にあったとはいえ、引退してしまえばファイトマネーをはじめそれまでの後援者からの支えなど一切の収入は途絶える。
いくらかの蓄えがあったとしても、30代前半の夫婦と育ちざかりの子供の一家3人が生活はすぐさま崖っぷちに立たされるのだ。

いずれはボクシングジムを経営して後進の指導に当たり、ボクシング界に貢献したい。また世界チャンピオンを育てるということをしたい。
そんなことを考えてはみたが、ジムを設立するような資金などまったく当てがない。
だからと言って、10代からボクシング一筋で生きて来た者に一般的な会社勤務が出来るとも思えない。いや、むしろずっと勝負の世界に身を置いてきた者としては、人生でエキサイティングにもう一勝負したい。

思考錯誤するうちに、花形進は現役時代の後援者が経営する横浜にある焼き鳥屋に身を投じた。
修行を積みお金を貯めて飲食店経営者になろう・・・それを目標として掲げた。
世界チャンピオンになるためにあれ程忍耐し続けられたのだから、焼き鳥屋の修行もきっと乗り越えられるはずだ。そうも思った。

だが、実際にはそう、たやすいことではなかった。
花形進には「元世界チャンピオン」という冠が自他ともに付いてまわったのだ。
 現役時代の花形進を知る者は店頭に立つ彼の姿に驚いた。もちろん尊敬の眼差しを向ける者があったが“冷やかす”者もいた。また、彼を知らぬ者は「おいお前!」と乱暴に花形進を呼びつけた。
 
 何が花形進を苦しくさせているのか分からなくなった。
 粗略な客の態度や言葉か?あるいはかつて世界一の男としてスポットライトを浴びて人々の賞賛を受けた花形進の「心」そのものなのか?

余談であり果てしない後日談となるが、現在花形ボクシングジムのトレーナーの一人石渡氏が、はじめてボクシングジムの門を叩こうとしていた頃、彼の父親が猛反対をしたという。
父は、自分が昔通っていた横浜の焼き鳥屋に元世界チャンピオンの人物が働いていて、世界チャンピオンになっても生活は大変なのだから、と反対したのだ。

しかし、石渡氏はその反対を押し切り、花形ジムに入門、プロボクサーになり引退しトレーナーとなった。長い間その父の話に出てきた「焼き鳥屋の元世界チャンピオン」が自分の師である花形進であったことを知らなかったという。
はじめてそれを知った時、その偶然性に驚いたことは言うまでもない。

つづく

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花形進の横顔 その8

 「世界チャンピオンになって大きく変わったこと?それはきっと“追う者”から“追われる者”へと立場がシフトしたことだろうね」

 長年ずっと追い求めて来た世界王座。これを花形進は手に入れた。しかし、その座はやはり多くのボクサー達の憧れであり、標的となることを意味していた。
   
 チャンピオンとして何度防衛を果たせるのか?チャンピオンという栄冠の座にどれくらいの時間、君 臨し続けることが出来るのであろうか?
 
 花形進はボクシングで勝つために大切なことをいつもシンプルに語る。
 「努力すること」「継続すること」・・・そしてこれは他人に教えることが出来ないモノなのかも知れないが、“何よりも、僕はボクシングが好きだから”と語る。
 王者である以上、その好きなボクシングを続けるためには防衛し続けなければならない。

 世界王座獲得から半年後の昭和50年4月、富山県私立体育館で花形進は始めての防衛戦に望んだ。対戦相手は4年前花形進の2度目の世界挑戦で負けを喫しているフィリピンのエルビト・サラバリアだ。

 花形進は終始押し気味に試合を進めた。サラバリアは2度もローブローで減点され、花形進の勝利は確実視された。
 しかし、結果は驚くべきことに2対1で花形進の判定負け。
誰もが耳を疑った。納得出来ないファンはリングに駆け上り、会場は騒然となった。
 大荒れに荒れた場内は、静まりをもはや取り戻すことが出来なくなり、ついには消防車と警官が出動するまでに至った。
 消防車はホースで水を撒き、暴徒と化したファンを静めようとしたが、その騒ぎは1時間も続いたのだ。
 花形進は当時を振り返る。
「あの時はまさかと思いボーっとしてしまいました。解説者の白井義男さんも僕の勝ちだと言っていましたし。僕も1時間リングの上で消防車の水を浴びてびっしょりして立ち尽くしていましたよ」

 「逆ホームタウンデシジョン」といわれた花形進には惜しんで余りある一戦で、花形進は座位を半年で失うこととなった。

 その半年後、富山での一戦を覆す意味でも再び挑戦者として、エルビト・サラバリアに望んだが敗退、その翌年はメキシコのミゲール・カントと世界タイトル戦を交えるがやはり花形進は勝つことが出来なかった。

そして花形進は長い現役生活に自ら終止符を打った。

 「まだ余力はありましたが、世界チャンピオンでしたからね。あまりみっともない姿は見せられない。自分は花のあるうちに引退する道を選んだよ。現役への未練ですか?それはありますよ。逆にいくら続けても未練はなくならなかっただろうな。それほどボクシングが好きというか、惹かれていたんですよ。魔法にかかったみたいにね」

 プロボクサー花形進は、65戦41勝(8KO)16敗8分(その内世界タイトルマッチ:何8戦1勝7敗)という戦績でリングの上から去った。
数字だけでは判断できない多くのドラマを残して。

 だが、それは花形進の人生のほんの第一章が終わったに過ぎなかった。

つづく

⇒こんな動画をyoutubeで見つけました。ご参考に。
「チャチャイ・チオノイvs花形進」


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8/12後楽園 第4回 花形 VS ワタナベ ジム対抗戦開催!

8月12日(火)後楽園ホールで「第4回花形 VS ワタナベ ジム対抗戦」
が行なわれます。 。
試合順は、下記試合予定(8月12日部分)下の段より上に上る順に
行われます。

試合開始時間 18:00
チケット   リングサイド席:1万円 指定席:5千円 自由席:3千円

チケットに関する御問い合わせは、御手数ですが、
花形ジム 045-932-0980 まで御願い致します。
花形ボクシングジム

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花形進の横顔 その7

 「そもそもチャンスは突然に来るものです。チャンスの予告なんてない。だからこそ、弛まず努力し続けなければいけないんです。そうでないと、突然訪れたチャンスをものに出来ないから」


 昭和48年10月、タイのチャチャイ・チオノイを相手に敵地で4度目の世界タイトルマッチに挑戦する も、敢えなく15回判定負けを喫した。
 通常であれば引退の文字が頭をよぎるはずだ。

 しかし、花形進は帰国翌日にはジムに顔を出し、世界チャンピオンを目指して練習を始めた。
「最近の若者は諦めが良すぎるんじゃないですかね?負けが続けば“諦める”。立ち向かう相手が強そうであったり、困難にぶつかると何処か気持ちが弱くなり“諦める”」
 諦めてしまえば、二度とチャンスは巡って来ない。チャンスが巡って来なければ、何処にも辿り着けない。
 諦めずに努力を継続する者にはチャンスが訪れる。


 昭和49年10月、花形進は再びチャチャイ・チオノイを相手に5度目の世界タイトルマッチに挑んだ。
 「いや、諦めずにとは言うけれどね、3度目の正直というならいざ知らず、5度目ともなると、さすがに負けたら引退するしかないな、と思いましたよ。そういう意味では崖っぷちということですね」
 花形進は前回の死闘を想定し後半戦に備え、気迫、スタミナを持ち越す作戦に出た。
それでも前半戦から、花形進の溢れ出る気迫が試合を優位に進めた。
 そして6ラウンド、チャチャイの反撃を受けることなく、レフリーストップで試合は終了。花形進のKO勝ちだ。

 「子供の頃から目標にして来た世界チャンピオンのベルトだけに、それを手にした時はどんなに大泣きするんだろう、と想像していたんです。いや、あんまり泣くとみっともないかな、と。ところがあまりに呆気なく試合が終わってしまって、何だか実感もなく涙が出なかったですね」と花形進は笑った。
 だが、彼が闘ったのは6ラウンドではなかった。
 16歳のデビュー戦から11年、22歳の初めての世界挑戦から5年という途方もない時間を、花形進は黙々と弛まず闘い続けて来たのである。
 そうして花形進はついに“到達”したのであった。 

つづく

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花形進の横顔 その6

 花形進の初めての世界タイトルマッチへの挑戦は「負け」という結果で終わった。
 しかし、この時22歳。「世界」を垣間見た花形進は、自分の心の内から「諦める」という選択肢を既に排除していた。
  それは、長い時を費やして努力し続ける中で育んだ姿勢であったのであろう。また、そんな姿勢の男に周囲も世界挑戦のチャンスを1度くらいで終わらせはしなかった。
 いや、2度や3度で終わらせはしなかったのだ。

 綿貫誠一戦、垂水茂戦と日本タイトル防衛戦を勝利で経て、トーレス戦から1年半後、昭和  46年4月エルビト・サラバリア(フィリピン)を相手に2度目のWBC世界フライ級タイトルに挑戦、再び判定で敗れる。
 当然の如くの再起。
 1年後には3度目の世界タイトルマッチで花形進は、あの大場政夫に挑んだ。
花形進は世界ランク4位、大場政夫にとっては3度目の防衛戦であった。
大場政夫には、4年前勝っていた。
 「そうですね・・・」と花形進は当時を振り返る。
 「大場君は僕に負けたことを忘れられなかったんでしょう。世界王者が過去に負けた相手をそのままにしておくことは出来ない。それが彼の負けん気なんですね。だから僕も燃えたわけです」

 だが、花形進は試合直前に体調を崩し減量に失敗してしまった。計量の際に0.9キロオーバーしてしまったのだ。
 1回目の計量の後、サウナでウエートを落とすものの、38.2度の熱を出すなど、コンディションは最悪になっていた。「いや、本当につらいなんてものではなかったですよ」と、あまり弱音を語らない花形進が珍しい。

 そうしてドクターストップ寸前の体で花形進はリングに上がった。
 しかし、その試合で見せた彼の闘魂はすさまじかった。
 前半はリーチに恵まれた大場に押されるものの、12回、13回と花形進は猛反撃、大場を再三ロープに追い詰めた。
 「それでも大場君は強かったですね。なにしろガッツがあった。一発入れると二発三発と打ち返して来る。何よりも勝負を捨てない。お互い執念で打ち合っていたような気がします」

 当時のマスメディアも絶賛した激しい攻防の世界戦は、主審が71-71の裁定をするも、花形進の判定負けに終わった。
 花形進は再び、地道な努力の日々に身を置き、次のチャンスをじっと待つことを余儀なくされた。「諦めるな」その言葉を何度も何度も自分に言い聞かせた。

 一方、大場政夫はその翌年、所属ジムへ愛車のシボレー・コルベットで首都高を運転中に不慮の事故に遭い、現役世界王者のまま23歳という短い生涯を終えてしまった。
 戦績は38戦35勝16KO2敗1分。
 2敗のうち1敗は花形進が奪ったものだ。

 花形進にとっても大場政夫にとっても生涯お互い忘れ得ぬ対戦相手であったことは言うまでもない。

つづく

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