8/12後楽園 第4回 花形 VS ワタナベ ジム対抗戦開催!
8月12日(火)後楽園ホールで「第4回花形 VS ワタナベ ジム対抗戦」
が行なわれます。 。
試合順は、下記試合予定(8月12日部分)下の段より上に上る順に
行われます。
試合開始時間 18:00
チケット リングサイド席:1万円 指定席:5千円 自由席:3千円
チケットに関する御問い合わせは、御手数ですが、
花形ジム 045-932-0980 まで御願い致します。
花形ボクシングジム
「そもそもチャンスは突然に来るものです。チャンスの予告なんてない。だからこそ、弛まず努力し続けなければいけないんです。そうでないと、突然訪れたチャンスをものに出来ないから」
昭和48年10月、タイのチャチャイ・チオノイを相手に敵地で4度目の世界タイトルマッチに挑戦する も、敢えなく15回判定負けを喫した。
通常であれば引退の文字が頭をよぎるはずだ。
しかし、花形進は帰国翌日にはジムに顔を出し、世界チャンピオンを目指して練習を始めた。
「最近の若者は諦めが良すぎるんじゃないですかね?負けが続けば“諦める”。立ち向かう相手が強そうであったり、困難にぶつかると何処か気持ちが弱くなり“諦める”」
諦めてしまえば、二度とチャンスは巡って来ない。チャンスが巡って来なければ、何処にも辿り着けない。
諦めずに努力を継続する者にはチャンスが訪れる。
昭和49年10月、花形進は再びチャチャイ・チオノイを相手に5度目の世界タイトルマッチに挑んだ。
「いや、諦めずにとは言うけれどね、3度目の正直というならいざ知らず、5度目ともなると、さすがに負けたら引退するしかないな、と思いましたよ。そういう意味では崖っぷちということですね」
花形進は前回の死闘を想定し後半戦に備え、気迫、スタミナを持ち越す作戦に出た。
それでも前半戦から、花形進の溢れ出る気迫が試合を優位に進めた。
そして6ラウンド、チャチャイの反撃を受けることなく、レフリーストップで試合は終了。花形進のKO勝ちだ。
「子供の頃から目標にして来た世界チャンピオンのベルトだけに、それを手にした時はどんなに大泣きするんだろう、と想像していたんです。いや、あんまり泣くとみっともないかな、と。ところがあまりに呆気なく試合が終わってしまって、何だか実感もなく涙が出なかったですね」と花形進は笑った。
だが、彼が闘ったのは6ラウンドではなかった。
16歳のデビュー戦から11年、22歳の初めての世界挑戦から5年という途方もない時間を、花形進は黙々と弛まず闘い続けて来たのである。
そうして花形進はついに“到達”したのであった。
つづく
花形進の初めての世界タイトルマッチへの挑戦は「負け」という結果で終わった。
しかし、この時22歳。「世界」を垣間見た花形進は、自分の心の内から「諦める」という選択肢を既に排除していた。
それは、長い時を費やして努力し続ける中で育んだ姿勢であったのであろう。また、そんな姿勢の男に周囲も世界挑戦のチャンスを1度くらいで終わらせはしなかった。
いや、2度や3度で終わらせはしなかったのだ。
綿貫誠一戦、垂水茂戦と日本タイトル防衛戦を勝利で経て、トーレス戦から1年半後、昭和 46年4月エルビト・サラバリア(フィリピン)を相手に2度目のWBC世界フライ級タイトルに挑戦、再び判定で敗れる。
当然の如くの再起。
1年後には3度目の世界タイトルマッチで花形進は、あの大場政夫に挑んだ。
花形進は世界ランク4位、大場政夫にとっては3度目の防衛戦であった。
大場政夫には、4年前勝っていた。
「そうですね・・・」と花形進は当時を振り返る。
「大場君は僕に負けたことを忘れられなかったんでしょう。世界王者が過去に負けた相手をそのままにしておくことは出来ない。それが彼の負けん気なんですね。だから僕も燃えたわけです」
だが、花形進は試合直前に体調を崩し減量に失敗してしまった。計量の際に0.9キロオーバーしてしまったのだ。
1回目の計量の後、サウナでウエートを落とすものの、38.2度の熱を出すなど、コンディションは最悪になっていた。「いや、本当につらいなんてものではなかったですよ」と、あまり弱音を語らない花形進が珍しい。
そうしてドクターストップ寸前の体で花形進はリングに上がった。
しかし、その試合で見せた彼の闘魂はすさまじかった。
前半はリーチに恵まれた大場に押されるものの、12回、13回と花形進は猛反撃、大場を再三ロープに追い詰めた。
「それでも大場君は強かったですね。なにしろガッツがあった。一発入れると二発三発と打ち返して来る。何よりも勝負を捨てない。お互い執念で打ち合っていたような気がします」
当時のマスメディアも絶賛した激しい攻防の世界戦は、主審が71−71の裁定をするも、花形進の判定負けに終わった。
花形進は再び、地道な努力の日々に身を置き、次のチャンスをじっと待つことを余儀なくされた。「諦めるな」その言葉を何度も何度も自分に言い聞かせた。
一方、大場政夫はその翌年、所属ジムへ愛車のシボレー・コルベットで首都高を運転中に不慮の事故に遭い、現役世界王者のまま23歳という短い生涯を終えてしまった。
戦績は38戦35勝16KO2敗1分。
2敗のうち1敗は花形進が奪ったものだ。
花形進にとっても大場政夫にとっても生涯お互い忘れ得ぬ対戦相手であったことは言うまでもない。
つづく
花形進は、花形ボクシングジムの選手が試合に負けると、負けた選手に対してこんな言葉をかける。
「勝負なんだから勝ち負けの結果は仕方ないよな。くよくよ考えたって変わらないぞ。だいたい、お前はスーパースターでも、ヒーローでもないんだから、1回や2回負けたから何だってんだよ。悔しかったら明日から練習しろ」
スーパースターでもヒーローでもないなら、練習に打ち込め。
これを実践してきたのは、紛れもない花形進本人であった。
そして、その男が多くの人々の度肝を抜き、ヒーローとなる。
WBCフライ級チャンピオン・アラクラン・トーレス(メキシコ)と花形進のロサンゼルス遠征ノンタイトル10回戦は、誰もの予想を覆した。
花形進は持ち前のヒットアンドアウェー戦法で、トーレスのパワーを空転させ、終始リード、文句なしの判定勝ちを収めたのである。ボクシング界の快挙だった。
帰国すると空港にはマスコミ取材陣が待ち構えていた。出発の時とのギャップに花形進は少なからず驚く。猛烈なカメラのフラッシュの嵐、詰め寄る記者達・・・
弛まぬ努力の末、花形進はついに栄光を掴んだのである!!!
と、“スポ根”ドラマならば、ここでエンディング・ミュージックが流れ、THE ENDとなることであっただろう。
しかし、人生は言わば死ぬまで終わりのないドラマだ。
世界チャンピオンから奪った大金星とはいえ、あくまでもノンタイトル戦。世界チャンピオンの座は、もはやすぐ目の前、手の届くところ、時間の問題、ではあったとしても世界チャンピオンでないことには違いない。
帰国後、花形進は、日本フライ級チャンピオンとして再びスピーディ早瀬を打ち破り、防衛を果たし、その勢いのままトーレスとの念願のタイトルマッチを迎える。
敵地メキシコでの戦いとはいえ、5ヶ月前に打ち負かした相手である。実力で行けば花形進が勝つ。それだけのテクニックも勢いも持ち合わせていた。何よりも彼自身に強い闘志と自信があった。
しかし、結果は花形進の判定負けであった。
(つづく)
※当ブログは月2回程度の更新になります。
勝ったり、負けたり。負けたり、勝ったり。負けたり、負けたり・・・
しかし、諦めずに明確な目標を持って努力を怠らない者に、終わりのないトンネルはない。
花形進は昭和43年、10回戦選手に昇格する。実に31戦を積み重ねた後の10回戦昇格であった。
10回戦に進んでからの花形進は連戦連勝を重ねた。それまでKO勝ちが一つもなかったが、長い下積み時代に培った技術と、絶え間ない鍛錬に裏打ちされたスピード、そしてなによりも不屈の精神力が、花形進を飛躍させた。昭和43年7戦7勝、2KO。この数字がそれを物語る。
この時期花形進は、あの伝説のボクサー大場政夫に判定勝利を収めている。後にWBA世界フライ級チャンピオンとして5度の防衛に成功するが、現役王者のまま不慮の事故死を遂げ「永遠のチャンプ」と称される伝説のボクサー、大場政夫だ。
しかし、この勝負はやがて後に花形進vs大場政夫の因縁の世界タイトルマッチへとつながって行くのだが・・・
さて年が明けた昭和44年、花形進は大きく花が開く。
4月にスピーディー早瀬を破り日本フライ級チャンピオンの座に登りつめたのだ。
そしてその勢いは留まることを知らなかった。
6月に現役のWBCフライ級チャンピオン・アラクラン・トーレス(メキシコ)とノンタイトル戦ではあるが、ロサンゼルス遠征でのカードが決まったのだ。
つい数年前、1勝もできない年もあった。“世界”など程遠かった。見上げても見上げても、世界は霞んで見えた。
いや、そう思っていたのは周囲の人々でしかなかったのかもしれない。少なくとも花形進には見えていた。少なくとも見ていた。世界を見ていたからこそ、負けても負けても、翌日からジムに顔を出し練習に打ち込んできたのだ。負けたから、勝つことを考えた。負けたから、勝つために練習をした。
勝負をしたからこそ、「負け」があり、「負け」があるからこそ、「勝ち」に向かう力を得られる。勝負をしない者に、「勝ち」も「負け」もない。
メキシコのトーレスはサソリと呼ばれた強打者であった。マスコミをはじめ、周囲は花形進の勝利の可能性はないと踏んでいた。完全にノーマークであった。
花形陣営は、人知れずほとんど取材を受けることもなく、ひっそりと羽田空港からロサンゼルスへ向けて飛び立った。
つづく